課題 >> 1. 「子供とのつき合い方」 を読んでください。

子供とのつき合い方

子供に関する主な問題は、どうやって彼らと付き合っていくか、ということです。 育児においては、子供ではなく、大人が問題なのです。 心の奥に愛情と寛大さを備えた善良で安定した大人は、子供が得られる、ほぼ最高の癒しです。

育児にあたって主に考慮すべき点は、子供の自主性を損なうことなくしつける、という問題です。 子供をコントロールしなくても済むような方法で育てたいのです。そうすれば、子供はいつでも自分の力で自分を律することができるでしょう。 子供のきちんとした振舞い、健康、健やかな心はこれに懸かっています。

子供は犬ではありません。 犬をしつけるように子供をしつけることはできません。 子供はコントロールできるような何かではありません。 子供が人間であるということを見過ごさないようにしましょう。 子供は人間とは一線を画する特殊な種の動物ではありません。 子供とは、まだ完全な成長に達していないひとりの男性もしくはひとりの女性です。

人間の行動に当てはまる法則はどのようなものであれ、子供にも当てはまります。

引っ張り回されたり、引きずり回されたり、あれこれ言いつけられたり、やりたいことを何でも制限されたりしたら、あなたはどう思いますか? 憤慨することでしょう。 子供が憤慨しないのは、彼が小さいからにすぎません。 平均的な子供に対して出される命令、矛盾、軽んじた態度によって大人であるあなたを誰かが扱ったら、あなたはその人をただではおかないことでしょう。 子供は十分に大きくないために、殴り返したりはしません。 その代わり、床を泥だらけにし、あなたの昼寝を妨げ、家庭の静穏を破壊するのです。 もし子供が権利という点であなたと対等であるならば、このような「仕返し」は求めません。 「仕返し」は、子供の普通の振舞いです。

自己決定とは、人が自分自身の選択によって、自分の環境にコントロールされたり、されなかったりすることができる状態のことです。 その状態にある人は、物質宇宙および他の人たちに対するコントロールに自信を持ちます。

子供は自己決定をする権利があります。 あなたは、子供は物を自分の上に落としたり、道路に飛び出したりなどするのだから、抑えなければケガをしてしまうと言います。 子供がケガをしてしまうような部屋や環境に住まわせているなんて、大人であるあなたは一体何をしているのですか? もし彼が何かを壊したら、その責任は彼ではなく、あなたにあるのです。

自らの自己決定を発揮することができる限り、子供はその愛らしさや愛情を失わずに済むことでしょう。 あなたがそれを妨げれば、その分子供の人生は妨げられます。

自分で決断する子供の権利が妨げられなければならない理由はふたつしかありません。その子供の環境の脆(もろ)さと危険性、そしてあなたです。 というのも、あなたがどのように考えようとも、あなたは自分になされたことを子供に対して行うからです。

あなたが取ることのできる方法はふたつです。 子供が傷付けることなく、子供自身もひどく傷付けられることがなく、しかも子供の空間と時間を大きく制限しない環境の中で、子供に行動の自由を与えることです。 サイエントロジーのサービスによって、あなたを喜ばせる方法をあまり知らないことについて、あなたの寛容さがそれと同等か、それを超えるまで、あなた自身の逸脱(理性的な思考や行動から外れること)を一掃することができます。

子供に何かを与えたならば、それはその子のものです。 もはやあなたのものではありません。 衣服、おもちゃ、部屋、子供に与えられたものは、その子の独占的なコントロール下に留まらなければなりません 子供はシャツを破ったり、ベッドを台無しにしたり、おもちゃの消防自動車を壊します。 それはあなたの関与するところではありません誰かがあなたにクリスマス・プレゼントをくれたものの、それ以来、来る日も来る日もそれをどう扱うべきかをあなたに命じ、贈り主が望むように手入れしないと罰しさえするとしたら、あなたはどう思いますか? あなたはその贈り主を叩きのめして、プレゼントも台無しにするでしょう。 自分がそうするとわかっていますよね。 あなたが子供にそんなことをしようものなら、子供はあなたをすっかり参らせます。 それは仕返しです。 彼は泣きわめきます。 あなたを困らせます。 あなたの持ち物を壊します。 「偶然に」ミルクをこぼします。 そして、しょっちゅう注意するように言われている持ち物をわざと壊します。 なぜでしょうか? 子供は自らの自己決定のために、自分が所有する権利のために、周囲に対して自分の重要性を認めさせるために戦っているからです。 この「所有物」とは、子供がそれによってコントロールされる可能性のある、もうひとつの経路です。 そのため、子供はその所有物とそれをコントロールする者に対して戦わなければならないのです。

恐らく、お偉い元理髪師たちは自らが下手に育てられたために、育児の極致コントロールだと考えるのです。 自分の子供をコントロールしたいのであれば、完全な無気力に陥るまで子供を従順にしつければいいのです。そうすれば、子供は催眠術をかけられた白痴のように従うでしょう。 子供をコントロールする方法を知りたいのであれば、犬のしつけの本を買ってきて、子供を「レックス」と名付け、まず始めに「取ってこい」、それから「お座り」を教え、そして餌が欲しい時には吠えるように教え込むことです。 あなたはこのように子供に教え込むことができます。 確かにできます。 しかし、子供がけんか好きになったとしても、それは自業自得です。

もちろん、それには苦労することでしょう。 相手は人間なのです。 人間はひとつの種として打ち負かされることがなく、百獣の王となったのですから、これは簡単なことではありません。 犬のようにやすやすと従順で無気力にはなりません。 「人間」が「犬」を所有するのは、人間は自己決定を行い、犬はそうしないからです。

人々が子供を犬と混同し始め、力ずくで子供をしつけ始めた原因は、心理学の分野にあります。 心理学者は次のような「原理」に基づいて働いていたのです。

「人間は邪悪だ。」

「人間は、 社会的な動物になるように仕込まなければならない。」

「人間は環境に順応しなければならない。」

このような仮定は真実ではないため、心理学には効果がありません。 これまでに廃人同然になった人を見たことがあるならば、その人は心理学者の落とし子です。 他人の文章を読んでから考え出したような文章の代わりに、私たちを取り巻く世界に目を向ければ、これらの仮定の誤りがわかります。

事実は、前述のような信念とは正反対です。

真実は以下の方向に沿っています。

「人間は本来善である。」

「ひどい逸脱によってのみ、人間は邪悪になり得る。過酷な訓練は人間を非社交的な性質に追い込む。」

「人間は、健全であり続けるために、環境を自分に順応させる自らの能力を保持しなければならない。」

「人間は、自己決定している程度に応じて、健全かつ安全である。」

子育てにあたって、子供を社会的な動物にするための「しつけ」を避けなければなりません。 そもそも子供は、あなたよりも社交的で、あなたよりも品位を持っています。 比較的短い間に受けるあまりにも抑制的な扱いのために、子供は反抗するようになるのです。 その反抗は、全く手に負えなくなるほどにまで度を増すことがあります。 その子は騒々しく、思慮に欠け、持ち物に対してだらしなく、不潔になります。つまり、あなたを悩ませることなら何でもします。 子供を教え込み、コントロールすれば、あなたはその子供の愛情を失うでしょう。 あなたがコントロールし、所有しようとする子供は、永遠に失われてしまうのです。

子供が膝の上に座るのを許してあげなさい。 その子は満足してそこに座るでしょう。 次に、子供に腕を回して、無理やりそこに座らせてみてください。 その子が離れようとしなくても、そうしてみてください。 子供は即座に身をくねらせます。 あなたから逃れようと奮闘します。 怒り出します。 泣きわめきます。 ちょっと、思い出してみてください。あなたが抑え付けるまでは子供はうれしそうだったのです。

子供を型にはめ、教え込み、コントロールしようとするあなたの努力は概して、子供を膝の上に抑え付けておこうとするのと全く同じような影響を子供に与えます。

子供は、その子の生存に関わる多くの側面で両親の援助が必要です。 しかし、自分の人生における決断がひどく妨げられると、その子を大いに悩ます問題を与えることになってしまいます。

あなたの子供が、すでに教え込まれ、コントロールされ、あれこれ言いつけられてきており、自分自身の持ち物を所有することを禁じられているのであれば、もちろん困難が控えているでしょう。 道半ばで戦法を変えようとしているのです。 あなたは子供に自由を与えようとします。 子供はあなたをひどく疑って、適応するのにとても苦労することでしょう。 こうした移行期は大変なものになるでしょう。 けれどもその最後には、秩序感覚のある、よく教育され、社会性を備えた子供が生まれていることでしょう。あなたを深く思いやる、あなたにとってかけがえのない、あなたを愛する子供になっているでしょう。

束縛され、羊のように監視され、操られ、コントロールされている子供は、苦悩を抱えることが予想されます。 両親は自分にとって生存的な存在です。 彼らは食べ物、衣服、住む場所、愛情を意味しています。 つまり子供は親のそばにいたいのです。 彼らの子供なのですから、もちろん彼らを愛したいと思っています。

しかしもう一方で、親は非生存的な存在でもあります。子供の存在と人生全体は、自分の行動や自分の持ち物、そして自分の身体に関して、自らの判断を下す権利に懸かっています。子供は「コントロール」抜きには学ばない白痴である、という誤った考えから親はこれを邪魔しようとします。 ですから、子供は敵を避け、敵と戦い、敵を困らせ悩ませなければならないのです。

悩みはこのようなものです。 「僕はお父さんもお母さんも本当に大好きだ。 それに、僕にはふたりが必要だ。 だけどふたりとも、僕の能力や知力や、僕の人生の可能性に対する妨害になる。 ふたりのことをどうすればいいんだろう? 一緒には生きていけない。 でも彼らなしでも生きていけない。 どうしよう、どうしよう!」 その子はそこに座り、頭の中ではこうした問題が駆け巡っています。 このような問題、このような悩みが、子供におよそ18年もつきまといます。 そして、それは彼の人生をいくらかだめにするのです。

子供にとっての自由は、あなたにとっての自由を意味します。 子供の所有物をその運命に委ねれば、結局、子供の所有物に安全をもたらすのです。

子供に対して絶え間なく指示を与え続けないようにするためには、何とすさまじい意志の力が親に要求されるのでしょう! 子供の持ち物が台無しになっていくのを見ていることはどれほど苦しいものでしょう! 子供の時間と空間を規制することを拒むのは何と苛立たしいことでしょう!

しかし、子供が健康で、幸福で、注意深く、親切で、賢くなることを願うなら、そうしなければならないのです!

自分自身の選択で、環境によってコントロールされることができたり、されないでいることができる状態のこと。 その状態にある人は、物質宇宙および他の人たちに対するコントロールに自信を持つ。

壊れやすい、あるいは破壊や損傷をこうむりやすい性質。

理性的な思考や行動から外れること。不合理な思考や振舞い。 逸脱とは基本的に、誤りを犯す、間違える、またより正確には、真実ではない固定観念を持つことを意味する。 この言葉はまた科学的な意味合いにおいても使われる。 それは真っすぐな線から外れるという意味である。 ある線がAからBに向かうものとし、それが「逸脱」するとすれば、Aからどこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行って、最終的にBにたどり着く。まっすぐという性質に欠けているということ、あるいは馬を見ているのに自分は象を見ているのだと思う人の例のように、物事を歪めて見ることを意味する。 逸脱した振舞いとは、誤った振舞い、あるいは理性によって裏付けされていない振舞いであろう。 「逸脱」とは正気に反するものであり、正気はその反対のものであろう。 「逸 = 道筋から抜けて横にそれる」と「脱 = 離れて抜け出す」から来ている。

それ以上ない状態に達していること。最も優れた、最善の、完璧な。

精神的な能力や知性を全く持っていない人。ひどく愚かな人。

不運や不幸を自ら招くこと。

共同体の中で生活している人、あるいは共同体の中で生活することを望む人。他の人たちとの関わりや交友を持つことを望む人。 ここでは皮肉として使われている。

論理的思考の土台として、何かが真実、事実、必要であると考えること。

理性的な思考や行動から外れること。不合理な思考や振舞い。 逸脱とは基本的に、誤りを犯す、間違える、またより正確には、真実ではない固定観念を持つことを意味する。 この言葉はまた科学的な意味合いにおいても使われる。 それは真っすぐな線から外れるという意味である。 ある線がAからBに向かうものとし、それが「逸脱」するとすれば、Aからどこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行き、どこか他の点に行って、最終的にBにたどり着く。まっすぐという性質に欠けているということ、あるいは馬を見ているのに自分は象を見ているのだと思う人の例のように、物事を歪めて見ることを意味する。 逸脱した振舞いとは、誤った振舞い、あるいは理性によって裏付けされていない振舞いであろう。 「逸脱」とは正気に反するものであり、正気はその反対のものであろう。 「逸 = 道筋から抜けて横にそれる」と「脱 = 離れて抜け出す」から来ている。

他の人々と友好的に関わり、交友を持つことができる性質。